光華商場の歴史と、台北の地形の関係性 前編
前回、MRT忠孝新生駅周辺の電気街「台北の秋葉原」について紹介しましたが、その誕生を知る方は少ないかもしれません。
「台北の秋葉原」が、なぜあの地に生まれたか。少し深堀しようと思います。
台北に暮らすイチ日本人OLが好奇心で調査し、書き上げた“大人の自由研究”として読んでいただきたいです。まだまだ勉強途中で間違いや不足がある場合は、ご指摘いただけると大変幸いです。
目次)
<前編>
光華商場の概要(おさらい)
光華橋の誕生
<後編>
光華商場の変容1―現在の電気街が出来るまで
光華商場の変容2―光華橋の取り壊し
光華商場の変容3―光華商場の引っ越し
まとめ
筆者感想
―光華商場の概要(おさらい)
「台北の秋葉原」は、MRT忠孝新生駅から徒歩数分の場所にあります。そのエリアで歴史のあるモールが「光華數位新天地(以下:光華)」。
現在光華位置&周辺
現在は電気デパートですが、その始まりは古本や骨董品の販売から始まったそうです。
つい最近まで、“少し”違う場所にありました。現在地の東側に大通り「新生南路」(※北側は松江路に名称が変わります)がありますよね?この道路の上に位置していたそうです。
旧光華位置
新生南路
ココには2006年まで、大きな陸橋がありました。その高架下にあったのが、光華の前身「光華商場」です。
光華商場があることから、陸橋は通称「光華陸橋」と呼ばれていました。2006年に取り壊され、現在は見ることが出来ないのですが、日本のYouTubeではその姿を確認できます。2年前にkamepoさんがアップされた1995年撮影の台北の様子の中に映っており、光華商場もありました。この映像は台湾のニュースで取り上げられ、話題となったようです。
SETN三立新聞網 2018年4月28日「23年前台北長這樣… 日客影片讓台人淚喊『時代的眼淚』」:
次は、なぜこんなところに陸橋が誕生したのか。その背景を探っていきます。
―光華陸橋の誕生
光華陸橋があった新生南路あたりには昔、水路がありました。瑠公圳と呼ばれ、18世紀に灌漑用水路としてつくられたものです。
1945年台北松山地図1:10,000 (アメリカ陸軍監修作成 パブリックドメイン)
拡大図 地図から見る台北の移り変わり
盆地の台北で農業を携わる人たちにとっては、貴重な用水路でした。
しかし、日本統治時代の1933年以降は排水路(特一號排水溝)として使われるようになります。水路の両端に車両道路ができ、沿道には柳の木が植えられ、当時は“堀川通”や”緑川“と呼ばれていたそうです。
そして、戦後1945年に“堀川通”から、現在の“新生南路”に名前が変わりました。
地図をもう一度見てください。当時、現在の市民大道は鉄路で、現在の台北駅と松山駅を地上で結んでいました。
また、鉄路と水路を横切るように現在の八德路が伸びており、台北駅周辺の繁華街と松山エリアをしっかりと繋いでいますね。
主要エリアをつなぐ幹線道路が交差するだけに、尋常ではない交通量が想像できます。さらに、鉄道の踏切があったことで大渋滞が起き、長い間台湾人を苦しめていました。現在も通勤ラッシュ時は道が混みやすい台北ですが、今も昔も変わっていないようです…
この問題を緩和させるべく誕生したのが、光華陸橋でした。
1971年に開通、1972年には新生南路の水路が地下水路へと変わり、地上から姿を消しました。
1973年には、台北市政府が高架下にある公共スペースに商業施設を設置しようと動き出します。
それこそが光華商場でした。
次回は時代と共に変化してゆく光華商場の様子をお伝えします。
※画像は全てノマドスタッフが撮影・編集しました
写真で台湾!Instagramにて公開中
▼ノマド 台北女子社員日記
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